映画「インセプション」ポスター

映画「インセプション」が夢オチかどうかってことより

サンダンス映画祭最優秀脚本賞の「メメント」、それに「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督のSF映画「インセプション」を観た。同じ夏休み映画「仮ぐらしのアリエッティー」に客を奪われてか、席はがらがら。それを狙って行ったってのもあるけど。

夢がらみの物語で印象に残ってる物語といえば…

絨毯素材にまで細かなディティールを持たせた夢だなんて

インセプションのディカプリオ夢の組み立てに設計士が必要な程、夢の中であっても細部までとても現実的な世界であるところに違和感を感じた。一方で、主人公コブ扮するディカプリオの悪夢は設計士不在でもリアルに襲いかかってくる。バーテャルリアリティー(VR)と夢、両方に差がないという割り切った設定なので、夢の曖昧さ、不条理さに期待して見た人はがっかりします。VRにはない夢独自の不確かな感覚やデジャブ感を期待しすぎてしまった。
マイノリティ・リポート 特別編」の映画の中で予知能力者プレコグが頭の中で描きだす映像のような不確実なイメージを勝手に期待していたのかもしれないけど。お化けイメージの違いと同じく、夢のイメージも日本と西洋で違うのかもしれないなと思った。つまりフランケンやバンパイアなどの現実的なモンスターである西洋のお化けのイメージ対して、四谷怪談、こっくりさん、貞子といった超現実的な日本のイメージ。

VRと夢を同軸に描いた設定が好きか嫌いか

夢とは一時的な記憶を蓄えた人間の脳が、さらに長期的な記録組織へと信号を引越しさせる際に生じる微弱なショートによって起こるもの」という仮説(東京大学医学部教授・養老孟司著作「唯脳論」に記述?)など、夢に関する近代の科学的な解釈や新しい発想がなく、平凡な夢設定のままだったの事も期待はずれ。夢に溺れすぎた人間が「虚無」へと陥ることや、時間のずれがあることなど、クリストファーノーラン監督独自のユニークな解釈は多少あったものの。

例えば、夢の中にいる曖昧さや気味の悪さ、不条理さといった感覚的な表現で「うる星やつら・ビューティフルドリマー」の良さを改めて感じてしまうほど。夢の進行と同時に次々と変わり果て、友引町の風景やバクが夢を食べる虚無のイメージは「うる星やつら」という借り物のキャラクターが邪魔に思える程面白かったので。

僕が勝手に想像したインセプションのストーリーとオチ

そこで、この映画に抱いていた期待と実際のストーリーをミックスしてみた。こんな映画が見たかったんだよね。自己満足だけど。

ターゲットの夢の中に入って機密コードを奪う闇の仕事人、主人公コブは同じ仕事人の敵からの「侵入」に悩まされていた。そんな中、依頼を受けた仕事の途中、過去に亡くしたはずの家族(妻)の悪夢がフラッシュバックし襲い掛かるのだ。夢や深層心理を扱う身であるにも関わらず、その仕事にとって致命的である危険なトラウマをコブはかかえていた。「トラウマを持った者はエクストラクト厳禁」。コブがその掟を無視している理由、それは夢で家族と出会える事。しかし夢に溺れたものは夢を橋渡ししての特殊な二重夢人格者になり、その果てに有るのは虚無。妻は亡くした子供に出会うために夢に没頭。ついに現実を夢と間違い自殺。
仕事の夢スパイと妻の悪夢、両方が進んでいくなか、繋がるはずのない両方の夢に共通点がみつかり愕然とするコブ。やがて抱き始める疑惑、それは「夢を見せられてるのは自分のほうじゃないのか」(このへん「ユービック」っぽい展開)。
夢の中で自分を見つけようともがき始めるコブ。ターゲットの夢、妻の悪夢、夢の中の自分探し。これらが同時に動き始め、交差する。
ラスト、ついに自分自身を見つけたコブが訪れた場所、それは生前の妻と築き上げた小さな夢の家。子供の亡くした不幸にフタをするはずの家が、逆に妻を追い込んでしまった場所。トラウマそのものであるココには正直入りたくない。しかも驚く事に、それはターゲットの金庫がある部屋でもあった。3つの夢は一致していたのだ。金庫をゆっくりとひらくコブ。何が金庫にしまってあるのだろう? 俺はまったく中をしらない。いや、知ってるような気がしてきた。襲い掛かるデジャブの衝撃波。(ここで、夏目漱石「夢十夜」を読んだ時ような鳥肌が)
デジャブと現実がついに埋まる瞬間、金庫の内面は外面と反転し、それが宇宙全体を覆った時、彼は覚醒した(ポアンカレ宇宙と「マルホランド・ドライブ」の中盤をミックスしたようなイメージ)。そして自分の本当の正体を知る。
彼は現実と思っていた長い長い夢の中で、自分探しの途中何度も、家族を亡くした責任に追われ、それはやがて加害者意識に移り変わり、時に「自分が犯したのではないか?」という疑いを持ち、それを隠そうとする自分自身にも気づいていたことを思い出した。だが覚醒後のコブには家族はなく、家族と思っていたものは自分の幼少期の記憶に過ぎなかった。彼は幼い時代、ある不幸によって両親を亡くし、物心ついたときにはすでに家族はなく、つまり、誰もが経験する家族という体験自体を経験したことがない孤児。未体験は体験の記憶を作れるはずもなく、未経験という経験が「亡くした家族」という悪夢を生んだのだった。そう、人は経験でしか夢を設計できないから。
彼のターゲットも依頼人も彼自身だったのか、はっきりとわからない。ひょっとしたら自分は妻殺しの殺人鬼で、その罪悪感から今も虚無に逃げ込んでいる事だってあり得る。覚醒後だったがまたしても自分探しを始めようとするコブ。今、もしこの映画を観ているあなたが自分探しをしているとしたら、疑ってみるといい。そしてこれが夢だと疑えたなら、それを設計した自分の脳を見つける長い旅に出て、反転したあちら側を探そう。鏡面に近づくように。

そんな余韻のあるオチの映画かなと勝手に。

インセプションとトラウマ克服

例えば

フィリップK.ディックのSF小説「ユービック」の冒頭で、死の瞬間を永遠に引き延ばされた死者の意識を呼び出し夢想の中で遺族とコンタクトする場面で予想外に入り込む場面、科学と非科学が融合するハプニングを連想すると「インセプション」の夢世界の薄っぺらさや、「キック」「1/20」などの夢ルールがなんだかゲームっぽくて、後半からストーリーどうでもよくなってきたかな。
面白かったけど、もっと重層するデジャブで混乱する自分を楽しみたかったよ。「メメント」の時のように。